「あ、共感とかじゃなくて。」展に行った。

「あ、共感とかじゃなくて。」展に行った。

 

安易な共感はかえって相手を不快にさせたり、同調圧力を生むことがある。だからあえて共感を避けよう、ということが今回の展示のコンセプト。

 

はじめに私の美術に対するスタンスを話しておくと、印象派と社会問題をテーマにした現代アートが好き。後者はあまり詳しくないけれど、ボルタンスキー、松田修Chim↑Pomあたりが好きかな。空間として美しいものや高い技術のある作品ももちろん好きだけれど、せっかく見るなら自分の経験と照らし合わせたりなにかを考えたい。物事を批判したり疑問を投げかけるとき、文章やデモ、演説とたくさん手段はあるけれど、アートや美術がどのようにそれを出力していくのか、その過程で起こる当事者と表現者の関係性はどのようなものなのか、という視点で見るのが好きかもしれない。

 

鑑賞者が「共感」をどのように捉えているのかが浮きぼりになる展示だったように思う。展示の途中のあたりで、共感とは?という題材で付箋に自分の意見を書けるところがある。具体的に覚えていないが、様々な立場の人がいた。共感は不要派の人もいれば、共感されて助かったというようなことも書いてあった気がする。覚えていないあたり、私はそれらの意見に共感しなかったのかもしれない。

 

「共感しなくていい」というスタンスは正直私には怖い。人に接することの多いバイトをしているけれど、私は人の感情や性格を把握することにとことん鈍い。自分は気が付かなかった他人の一面をほかの人に指摘される度に落ち込むし、なんで気が付けないんだろう……と自己嫌悪に陥る。共感は、安易でなければ人と人をつなげコミュニケーションを円滑にするように働くはずだ。共感について思うところはたくさんあるけれど、少しまとまらないからいつか書く。

 

作品で特に印象に残ったのは、一人目の有川滋男さんと三人目の渡辺篤さん。(ちなみに渡辺篤さん目的での来館だった)

 

有川滋男さんの作品は、企業説明のブースが複数置かれていて、モニターには仕事の映像が流れている。その仕事がなにをしているかは全くわからない。なにかをずっとカウントしている男。鼻歌を歌いながら穴を掘っている(?)男。それぞれに国や地域のモチーフがあると説明書きにあり、解釈しながら見ようとしたもの理解できない。それが怖くてたまらなかった。

 

なにを思ってこの作品を作ったのか、意図はなにか。それらがわからないまま動画を見るのが苦痛で、全部の映像を見ないままその場を離れてしまった。わからないものへの恐怖。遠ざけたいと思う気持ち。私が感じたものは、偏見や差別が生まれるときの感情に近いのではないか。

 

最近読んだ本*1に、「現代社会は要約至上主義になっているのでないか。わからないところ、言葉にしきれない部分を放置して、短絡的に解決させようとしているのではないか」という内容のことが書いてあった。私の、「作品を解釈したい」「意味のあるものを接種したい」という欲求もこれに近しい。

 

嫌な言葉を使えば私は今まで作品に「生産性」を求めていたのではないか。だから、解釈もできず感動もできない動画が苦痛だった。思えばわからないことなんて無限にある。最近だったら「蚕の市」をなぜ「のみ」と読むのかわからなくてネットで調べた。答えはすぐに出てきた。調べればわかる問題、特定の立場をとってる問題(フェミニストであるとか左翼であるとか)に固執し、「わからなさ」を楽しむ、耐える余裕が私にはなかったように思う。わからないこと、感じとれないことをもう少し受け入れられたとき、私は気が利かず鈍感で人の機微を理解できない自分のことを好きになれるのではないかと、少し希望を抱いた。

 

次に、渡辺さんについて。

 

渡辺篤さんは元ひきこもりで、私が知る限りひきこもりをテーマにした作品が多い。「同じ月を見た日」というプロジェクトは、参加者に孤独を感じたときに月の写真を撮ってもらうようにしていたらしい。

 

月の写真がたくさん並べられている

機材を使っているのか、鮮明に撮られた満月。自分の部屋の窓から見る月。街灯の上にある小さな月。子どもが描いた絵の月。同じ「月」でも様々な写され方をしていて面白い。私が普段携帯で撮るような、なんとなく撮ったとでもいうような構図の写真もあり、少し親近感がわいた。

 

これもいいな、と思ったのが、展示の横にあるパネルにハンドルネームや時間、場所が時系列順に並べられていることだった。はじめのころは渡辺さんが多く並んでいたが、徐々に新しい人が増えたり、特定の人の連続の投稿が続いたりする。連続しているところの時間帯を見てみると、数十分間隔だったりと、ツイートに近い印象を受ける。

説明のパネル



私も深夜、眠れないときにツイートをしていると、自分のツイートでTLが埋まってしまうことがある。「しんどい」などの言葉の羅列は余計に自分の気持ちを重くさせる。しかし月を撮るという行為の場合どうだろうか。撮影者は撮る場所を移動しているとき少しでも気が晴れただろうか、この写真を、自分の孤独を渡辺さんはどう活かしてくれるのかと期待を抱いたりしただろうか。後になって見返したとき、その思い出が嫌なものだけにならず、このプロジェクトに参加してよかったと思っているだろうか。

 

月が希望になってほしい。金銭、制度、専門職とフォーマルなものだけでなく、芸術やアートと時に不要不急になってしまう営みが、人の一瞬の孤独やいらだち(歩いていて転んだとか、人からのLINEがずっと止まっているだとか、部屋のものを踏んで痛かったとか)を癒すような手段になってほしい。芸術にも文学にも人生を変えられたことのない人間だからこそそう思う。でも、確かにそれらは私の生活の隙間を埋めてくれていたから。

 

吉本ばななの『キッチン』が好きだ。特に好きなのがここの文。

 ただ、こういうとても明るいあたたかい場所で、向い合って熱いおいしいお茶を飲んだ、その記憶の光る印象がわずかでも彼を救うといいと願う。

 言葉はいつでもあからさますぎて、そういうかすかな光の大切さをすべて消してしまう。

 

 

この展示を見たとき、この部分を思い出した。撮影者が渡辺さんとつながって、月を撮影して投稿して、その間も過去も想像しきれないほどの苦悩や苦痛があったかもしれないが、もし会場にこれたとき、暗い空間でソファに寝そべりながら多くの人が残した孤独の記録を見て共感して欲しい。共感のいらない展示だけれど、孤独を感じているのは自分だけじゃないと思えるような作品だった。

 

もうひとつ、共感してしまった作品がある。撮影禁止のため写真はとれなかったが、カーテンがガラスの向こう側にかけられていて、カーテンの隙間を覗き込むと、引きこもりの人の部屋の写真が見えるという展示。難しそうな本が並ぶ本棚の写真もあれば、物が床に散乱している写真もある。

 

わかる~~!と声が出そうだった。

私も部屋が散らかっている。足の踏み場はカップ麺のゴミと服とお酒の缶でなくなった。

 

またこれは、自力でカーテンを動かせず見ることのできる範囲が限られている、というのが作品として上手いと思う。引きこもりの問題は潜在化しやすく、どこまで見せるか、晒すかは当事者や家族の裁量に任されている。月を撮る、フリーハグ(渡辺さんがやっている、ひきこもりの人と会ってハグをするというプロジェクト)をするといったプロジェクトに参加し可視化されている引きこもりは、本当に一部にすぎない。

 

「可視化」というのは渡辺さんの作品に共通している言葉だと思う。そして「癒し」も。

渡辺さんはインタビュー記事でこんな話をされている。

 

「アートが当事者を搾取的に扱ってきた文脈があると自己批判的に思うので、どうやって参加者に合意形成を取り協働的に進められるかを重要視しながら進めてきました」

(出典:「あ、共感とかじゃなくて。」展(東京都現代美術館)レポート。共感とかじゃなくて……の後に続く言葉を考えてみる|Tokyo Art Beat

 

ここで述べられている「アートが当事者を搾取的に扱ってきた文脈」は私にはわからない。ただ排除アートであるとか、会田誠の『犬』シリーズであるとか、アートの名の元に排除や差別が行われてきた過去はあると思う。(ドガの『踊り子』が無批判、背景知識なしに展示されているのも私は苦手である)

 

ここまで、私は「作品を通してひきこもり当事者に共感した」といった内容を述べている。この暴力性、視野の狭さを優しく指摘してくれるのが、展示の最後にある『ここに居ない人の灯り』だ。

 

展示室の入口と出口は繋がっているのだが、入口の時点では単なる照明にしか見えなかったものが、実は「ここに居ない人」を可視化するための装置になっているのだと告げられる。

 

この作品がなかったら、私は「ここに居ない人」「来れない人」のことは考えずに帰っていただろう。「共感を避ける」というコンセプトの元「しなくていいんだ」「違う人なんだ」と安心して、「居る/居ない」の線引きはどこにあるのかを考えず、居ない人の存在を意識しないままでいただろう。中途半端で乱暴な「共感」を振りかざしかねなかった。

 

渡辺さんは最後まで、参加者の誰のことも取りこぼさない。美術館に様々な理由でこれない人をエンパワメントするような、同時に、そのように広い視野を持っている人がいてうれしいとここにこれた私も思えた。

 

「ベンチは『ここにいてもいいよ』というメッセージ」だと排除アートの記事で読んだ。公園や町からはベンチが撤去されたり、くつろげない椅子が増える中、美術館には過剰なほど椅子がある。私はそれにグロいと感じる。近くに美術館がある、お金を払える、公共交通機関に乗れる、(展示によるが)音や人ごみに耐えることができる。美術館に行くことにはハードルがある。それを、美術を消費する側のひとりとして忘れないでいたい。

 

思うところはたくさんあって、まとまらない文章になってしまった。私も数カ月間だけ、不登校になって引きこもったことがある。変な言い方だが、無責任に感じるかもしれないが、懐かしかった。うまく言い表せない。

 

この文を書いている間にタバコがなくなってしまったから、今から買いに行こうと思う。多分月の写真を撮る。こういう、ちょっとした楽しみを作ってくれるから私は美術館に行くことが好きだ。

*1:荒井裕樹、『まとまらない言葉を生きる』