記憶の話

 人の家を覚えることが嫌いだ。苦手ではなくて嫌い。一度覚えてしまうと、そこを通る度にその人はいま、なにをしているだろうと考えてしまうから。気持ち悪いだろうか。勝手な想像だから許してほしい。遠くに行った人でも、いまそこに住んでいるでい(るであろう)て関わりのなかった人でも。

 自分の近くにいない人ばかり気になってしまう。未練がましい性格なのかもしれない。四年ほど前に仲良くなっていまでは関わりもなくなった、すごく仲がよかった先輩の話でもなぜか覚えている。
 別れが多いから春が嫌いだとも思う。チューリップとか桜は好きだけれど、それでもあのどうしようもない、離れていく感覚ばかり残っている。


 いつ、どこでもらったかもわからない抹茶のお菓子のゴミが棚の隙間から出てきた。そういえば数日前、人に幼少期の話をしながら、父が私のために作ったパスタが麺から作ったのかどうかも覚えていないことに気がついた。お化け屋敷と呼ばれていた家に小学生の自分が入ったかどうかも。あの怪談は聞いた話なのか、それとも私が見たものなのか思い出せない。
 どうして、こんなにすぐ記憶は薄れていくのだろう。

 すごく好きな本に、こういう一節がある。

 だから私が気付いているのは、ちゃんと覚醒をしているのは、今しかない。今しかこの恋の真の価値は分からない。人は忘れる生き物だと、だからこそ生きていられると知っていても、身体じゅうに刻みこみたい。一生に一度の恋をして、そして失った時点で自分の秘働を終わりにしてしまいたい。二度と、他の人を、同じように愛したくなんかない。
綿矢りさ『ひらいて』P142)

 将来の私はいまをどれくらい覚えているだろうか。「大学生の頃はバイトしてるかお酒しか飲んでない」って言っているのかな。もっと楽しく過ごせばよかったのにと後悔しているのかも。未来の自分が現在をどう評価しているかわからないけれど、私にとってこの瞬間は大事なんだ、覚えていたい。酔って煙草を吸いながらこういう文章を書くのも、前に読んだ本を棚から引っ張りだしてくるのも。
 覚えていたい時間を消したくないから、こうやって残るためのことをしているのかもしれない。

 生きててよかったって思える時間を増やしたい。なんでもいいから。死にたくなったとき、こんなことがいつかまた来るかもしれないから、がんばろうと思える時間を。私は報われたい。家族に恵まれたと思うけれど、いろいろなとこであの時に戻れたらと思うことはたくさんある。そういう後悔すらすべて、この瞬間のためにあったんだと腑に落ちるような経験を、ずっとしていないと生きることに希望なんて見いだせなくなってしまう。

 名声を得るとかお金を稼ぐとか、そういう社会的な承認を得るものじゃなくて、ふたりの間だけでわかるものだけでいいんだ。基本暗い人間だから、自分の主義とか思想を話せばきもくなる。でもそういうところで繋がりあえた瞬間は本当にうれしい。一緒に飲むとか遊ぶとかもちろん楽しいけれど、私にはいまいち「ノリがあう」みたいな感覚はわからない。

 結局、ひとことでいうと「幸せになりたい」につきる。ここ半年くらいずっとこういう話をしている悲しい人間だ。なにか夢中になれることを探さねば、と思う。競技かるたを再開したいけど場所ないのと相手がいない。積読は少しずつ解消している。ギターでも始めようかな。行きたい旅行先もたくさんある、車買ってしまいたい。(一番いましないといけないことは勉強なんだけど)