「女性」として生きてきて思うこと

長く「女性」をやってきたな、と思う。

 

私のお母さんは「女性らしさ」を内面化した人だった。女の子なんだから数学ができなくても仕方ないよ。子どもを産むんだから体は冷やしちゃダメ。女の子なんだから、と言われ続けた。私の体は産むためにあるのだと、それが当たり前なのだと小さなころから聞かされ続けてきた。勉強に関しては「学なんていらない」と言い切るかと思えば、大学まで行った人だったからか厳しかった。

 

高校に入ったとき、出席番号は男子が先だった。男子が名前の順で1から番号を振られており、15あたりから女子が続く。それに疑問を抱かなかった。部活動で先生の防具をしまうのは男子の役割、お茶汲みが女子の役割と決まっていても。決められたことに従っていれば楽だったし、それ以上に目先のテストであるとか、部活の練習のことで頭がいっぱいだった。

 

医師は男性の仕事、看護師は女性の仕事、となぜか無意識に思い込んでいた。だから医学部を目指そうなんて考えたこともなかった。高校卒業後は看護の専門学校に入った。

 

そこで、私たちのしていることは専門的なことなんだと知った。看護、介護、保育。ケア労働はすべて正当な評価をされない。本当は専門的な知識と、多くの経験の元に成り立っているのに。少し前にTwitterで、「おばちゃん看護師にすごく落ち着いた。おばちゃんだけを集めた病院を作ろう」などと言っているツイートを見た。中年の看護師の経験知にそれは成り立っていると指摘する声と、褒めているのになにが悪いのだと返す引用で溢れていた。

 

「女」だからできるだろうと思われていることがたくさんある。岸田総理の「女性ならではの感性を発揮して……」であるとか。女性ならでは? そんな甘い解像度で生きてこれたな。

この発言については、もうどこでも言及されているから割愛する。

 

大学のコミュニティにいるとき、私は一番自分が人間扱いされていると感じる。サークルだって「男性3500円、女性3000円」なんてない。新歓で新入生の食事代が安くなるくらいだ。女の子なのに体冷やして、ということもなければ、居酒屋でちゃんぽんしてもいい。

 

反対に、一番自分の性別を意識するのはガールズバーのバイトをしているときだ。女性には、弱くバカで自分より劣っていて欲しいと思う男性(特に年配の)がたくさんいる。「セクハラするために金払ってるんだよこっちは!」と大きな声で叫ぶ若い子もいる。

 

場所を選べば私は「人間」でいられる。ただ、それもずっとではないだろう。私は異性愛者で、子どもも欲しいと思っているが、子どもを産んで育休をとって、となればなにかが変わるだろう。私の母だってそうだった。私の弟が障害者に生まれたのをきっかけに、正社員に誘われていたのにパートを辞めた。

 

もし(未来の)私の夫が転勤の多い人だったとき、自分がキャリアを諦めるのかもしれない。それが二人で話しあって、どうしようもなく選んだ結果だったなら「人間」扱いされているな、と思う。ただ周囲の人が私が家庭に入ることを、仕事を諦めることを、男についていくことを当たり前だと思っていたら? まだ遠い(彼氏もいないから遠すぎる)ことを想像して少し怖くなる。

 

そしてこんなことを書いているけれど、私はとても「女性らしい」と思う。世間で言われてる通り、理系科目は苦手だし化粧は好きだし胸元のあいた服も好きだ。「かわいい」に嘲りに近いものが含まれていても、褒められ慣れてないから少しうれしい。甘えるのも、おごってもらうのも、リードしてもらうのも関係性によるけれど好き。

 

自分に内面化されたものが、いつか「女性らしさ」の象徴にならないで欲しい。そう思いながらも、見た目が女性である自分がこの振舞いをしている以上、規範を強くさせる側に回っているよな、と感じる、そういうジレンマがある。

 

ただ、こういう苦悩をしているとき私はとても人間らしいと思う。好きに生きていきたい。自分が窮屈にならず、他人を抑圧しないくらいに。私は私でいたいと思う。『ニモーナ』がネトフリで配信された時、「ニモーナはニモーナだ」という感想がTLによく流れてきた。でも、私はそれは、マイノリティに限らずマジョリティだってそうだと思う。

 

ヘテロで、シスの私だって、細かな好き嫌いやいたい自分のある私だ。ところで、私はインターネットのHNをよく「さば」にしている。好きな食べ物だから。性別を感じさせない言葉で好きだ。